生地のコト、産地のコトを少し掘りさげ、わかりやすく解説させていただく“生地のコト、産地のコト”シリーズ。
今年は“産地のコト”にスポットを当てて、日本各地の繊維産地についてお話しさせていただきます。
第2回目は、世界遺産「富岡製糸場」、そして昨年末のイベント「服の産地直送」を開催させていただいた高崎タカシマヤさんにも近い桐生産地についてです。
■桐生(群馬)
群馬県桐生市を中心とした桐生産地は、強撚糸を使ったジャカード織物が有名で、染色、縫製、刺繍など繊維産業に関わる多種多様な業種の生産場が点在する産地です。
群馬県と言えば、世界遺産に登録されている富岡製糸場が有名ですよね。
富岡製糸場は明治政府が設立した官営の機械製糸場で、フランスから輸入した大型機械を使って糸を生産していました。もともと気候や地形に恵まれ、古くから養蚕が栄えていてこともあり、製糸生産の近代化と国内普及を担う国家プロジェクトの地として群馬県富岡市が選ばれました。
この地域の絹織物産地としての最古の記録は、約1300年前にまで遡ることができます。「続日本記」によると、714年に近隣諸国とともに「あしぎぬ」(絹織物の一種)を朝廷に献上したと記されています。
14世紀には、鎌倉幕府討幕挙兵の折に使用された幟(のぼり)の生地に桐生でおられた絹が使われ、16世紀には、時の将軍足利義輝から生絹の注文があったそうです。また、1600年関ヶ原の戦いで使われた徳川家康の2410枚の旗布は、桐生が一晩で作り上げたという逸話もあります。真偽はわかりませんが、当時から桐生が織物で盛えていたということがわかりますね。
このように、桐生の絹織物は、その時代の権力者が大切な時に身に纏ってきた伝統と風格のある織物であることがうかがえるかと思います。
「西の西陣、東の桐生」、「桐生で揃わない織物はない」という言葉もあるように、江戸時代後期になると、資本家が工場を設け賃労働者が手工業で製品を生産する「マニュファクチュア制度」が確立され、桐生は織物の産業都市へと発展していきました。
そして、1872年に明治政府によって生糸の品質改善、生産向上、技術指導者育成のための官営模範工場として設立されたのが富岡製糸場です。
当時、鎖国による遅れを取り戻すため政府による科学技術分野での近代化が推進され、その資金を集める方法として生糸の輸出に力が入れられました。それまで、生糸の生産は手作業によるものが多く、生産量がとても限られたものでした。富岡製糸場では、ヨーロッパから大型の製糸機械を輸入し、製糸業の近代化、国内製糸業の活性化に成功し、日本は世界中に安価で良質な生糸を輸出するようになりました。それまでは、一部の特権階級しか手にすることができなかった高級繊維だった絹をより身近なものにしました。
大正から昭和初期にかけて黄金期を迎えた蚕糸産業でしたが、世界恐慌による繭・生糸価格の暴落、また化学繊維の出現による需要の減少などが重なり、次第に蚕糸業は縮小していきます。
そうした中でも、ジャカード織機やドビー織機を取り入れ複雑な織り方を取り入れ海外輸出を増やしたり、第二次世界大戦後には生糸生産の自動化にも成功し桐生で開発された自動繰糸機を世界中に輸出したりするなど、世界の絹織物産業を支えました。
現在でも桐生市内の製造業の約半分が繊維産業に関わりがあり、実際に生産工程を見学できる工場見学や、織物製品を販売するショップも数多くあります。
また、往時の雰囲気を今に残す建物や織物工場特有の三角屋根の工場、生糸で財を築いた商家や製糸場に勤めていた女工さんの寄宿舎、銭湯などが残り、今では観光地としても人気の街となっています。
■HUIS blog【生地のコト、産地のコトシリーズ】
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