生地のコト、産地のコトを少し掘りさげ、わかりやすく解説させていただく“生地のコト、産地のコト”シリーズ。今年は“産地のコト”にスポットを当てて、日本各地の繊維産地についてお話ししています。
第3回となる今回は、遠州地域のある静岡県のお隣、山梨県の郡内地域についてご紹介します。
3.郡内(山梨)
郡内織物は、山梨県富士吉田市を中心とする、「先染め・細番手・高密度」が特徴の全国でも有数の高級絹織物産地です。
郡内織物の歴史は古く、平安時代の法令集「延喜式」には「甲斐の国は布を納めるように」と記されています。
また、古くからの織物産地らしく、織物伝承にまつわる伝説も残されています。
2,000年以上前の紀元前219年、秦の始皇帝から「不老不死の薬を探せ」という命を受けた「徐福」という家来が、薬を探して甲斐国を訪れました。しかし、薬は見つからず、帰国が叶わなかった徐福はそのまま甲斐国に留まり、自身の持つ高い織物技術を富士吉田市の人々に伝えたと言われています。
その後、16世紀になると南蛮貿易でもたらされた絹をもとに、「甲斐絹」が作られるようになりました。甲斐国(現在の山梨県)の他の場所でも織物が行われていたことから、「甲斐絹」や「甲州織」とも呼ばれていました。
江戸時代には全国でも有数の織物産地として栄え、平地が少なく米が多くとれないこの地域では、絹織物から得た金銭を年貢として納めさせることに重点が置かれました。その結果、絹織物産地として一層発展することになります。
また、江戸時代において贅沢を禁止されていた時期には、人々は決められた素材や色の衣服しか着ることができませんでした。そのため、服の裏地でおしゃれを競い、繊細で上質、色のよさと細かい柄を織れる郡内織物が江戸っ子たちの「粋」な気質に好まれました。地理的に、江戸に近いこともあり、羽織の裏地に多く用いられるようになりました。
郡内織物の優れた織物技術は江戸中に知れ渡っており、郡内産の生地は、井原西鶴や近松門左衛門の作品にも登場しているほどです。
明治時代に入り生産は最盛期を迎えますが、戦争が始まると金属確保のために大規模な織機の没収が行われ、多くの機屋さんが生産を断念することを余儀なくされます。
戦後、生産と貿易の自由化により、遠州産地でもよく聞かれる「ガチャマン」時代を迎えますが、日米貿易摩擦や東南アジア産の安価な生地の流通の影響を受け、生産量は次第に減少していきます。
生産量が減る中で、郡内織物の特徴である「先染め・細番手・高密度」の高い技術が生きる、裏地、ウールの着尺、ネクタイなどへと主要品目が移り変わります。その後、多品目少量生産に移行し、現在では婦人服地、裏地、傘地、ストール、バック、ネクタイ地、インテリア地など多様な生地が作られています。ネクタイの生産量では日本一の産地です。
近年は、定期的に一般の人を受け入れるオープンファクトリーを開催したり、自社ブランドを作り直接生産販売したりと、小規模で量より質を重視したものづくりをされている機屋さんが多いのも特徴です。毎年秋に開催される「ハタオリマチフェスティバル」は、全国から生地好きが集まる一大イベントとなっています。
なお、画像は郡内織物を織る、富士吉田の武藤(株)さんのファクトリーブランド「muto」さんよりご提供いただきました。国内でも最高品質の生地を織る素晴らしいブランドさんです。ぜひご覧くださいね。
■武藤株式会社
https://www.muto-stole.jp
@muto_stole
■HUIS blog【生地のコト、産地のコトシリーズ】
https://bit.ly/35AiXF4