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【生地のコト、産地のコト】 2023-06-04

“【生地のコト、産地のコト】vol.13 尾州(愛知・岐阜)“

生地のコト、産地のコトを少し掘りさげ、わかりやすく解説させていただく“生地のコト、産地のコト”シリーズ。今年は“産地のコト”にスポットを当てて、日本各地の繊維産地についてお話ししています。

第5回となる今回は、遠州生まれの豊田佐吉の長男・豊田喜一郎が織機づくりの技術を活かして自動車づくりに本格的に取り組んだ、愛知県。コラボPOPUPや産地交流ツアーなどでHUISとも何かとご縁のある愛知・尾州産地についてご紹介します。

5.尾州(愛知・岐阜)

尾州産地は愛知県尾張西部から岐阜県西濃地域にかけたエリアで、特にスーツやコートに使われる生地が多く織られていて、毛織物の世界三大産地の一つと称されています。

今では毛織物の尾州として広く知られていますが、木曽川水系と濃尾平野の地理的条件を活かして尾州地域では様々な素材で織物を生産してきた歴史があります。

木曽川の豊かな水と肥沃で温暖な濃尾平野は古来より植物の栽培に適しており、弥生時代には既に麻織物が作られていたような痕跡が残っているそうです。弥生式遺跡から発見された土器の底に布を貼り付けられた跡が残っていたことから、撚りが強く均質な麻織物がつくられていたことがうかがえます。
また、室町時代には「尾張細美(さいみ)」と呼ばれる極めて細く紡いで織った麻織物を生産していたようです。

また、綾や錦などの絹織物も盛んに織っていた様子が正倉院に現存する尾張国正税帳(西暦734年)に残されています。木曽川流域一帯では養蚕に欠かせない桑が栽培され、起絹(尾西市)、割田絹(木曽川町)などが盛んに織られていたことも知られています。

さらに、戦国時代以降はより実用向きな木綿栽培が盛んに行われるようになりました。
民衆の平常着として綿織物の普及に伴って、江戸時代の尾張平野では麦作の後に綿を栽培し、収穫の時期には納屋まで綿の山になったと言われるほど、農家の副業として綿織物の生産も盛んになりました。

木曽川の豊かな水と肥沃で温暖な濃尾平野の恩恵を受け、時代に合わせて様々な素材で織物をつくってきた尾州地域ですが、大きな転換点が訪れます。
明治24年(1891年)10月28日に発生した濃尾大震災により、木綿栽培が困難になり、建物や織るための道具も破損し、織物産業は大きな被害を受け、復旧に多大な時間と費用、労力を要しました。
奇しくも安価なインド綿花の輸入と重なり、大手企業による安価な綿織物の大量生産・販売により、農家の副業のような小規模な生産では対抗できなくなり、綿織物業は次第に衰微していきます。

そのような中で、綿織物に代わる新しい素材として羊毛が注目され、時代の流れをいち早く読んだ尾州の繊維業に携わる人々は、ヨーロッパで最新式の機械を購入して日本に持ち帰ったり、留学中に学んだ知見を広く伝え最先端の技術を導入したりと、毛織物への転換を図ります。
また、大正3年(1914)第一次世界大戦が勃発すると毛織物の輸入が途絶え、国産品愛用が推奨されたことも契機となり、毛織物への転換が進み、毛織物の生産体制が確立されていきます。

このように、尾州は時代に合わせて麻、絹、綿、毛とさまざまな素材を扱ってきた産地です。
古くから様々な素材で織ってきたこともあり、糸から織物に至る全工程が尾州に結集し分業体制を確立しているため、多種多様な製品を少量から生産できるというのも尾州産地の大きな特長です。

尾州でも、他の国内繊維産地と同様に、朝鮮戦争を契機とした「ガチャマン景気」といわれる最盛期を経て、その後は日米貿易摩擦・途上国の台頭などにより、生産量・繊維関連産業は次第に減少していきます。

近年は、「尾州マーク」を商標登録し、認証制度をスタート。「繊維産業の尾州産地」としてだけではなく「高級毛織物」として産地のブランド力向上に取り組んでいます。(HUISの製品のうち尾州織物を使用しているものにはこちらの認証マークがついています)

さらに、近年、循環型経済やアパレル業界の大量廃棄への関心の高まりにより、尾州で古くから受け継がれてきた羊毛再生技術が注目され、尾州の技術や産地としての評価が高まっています。

HUISのユーザーさんにはお馴染みの「尾州のカレント」「新見本工場」など、分業制の枠を超えて様々な企画を試みたり、尾州産地の認知向上のためにメディアや百貨店と協力したりと、社を超えて連携し産地全体を盛り上げる取り組みが注目されています。

■HUIS blog【生地のコト、産地のコトシリーズ】
https://bit.ly/35AiXF4

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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